空をあおいでごくごくと冷たいペットボトルの水を飲んで、ぷはーと勢いよく息を吐いた。見上げた秋の空は運動会にはうってつけの青さで、気持ちのいい風が髪をなびかせる。すうと体内に水分が行き渡り、走った直後の体をほぐしてゆく。


「おっ、風呂上がりのおっさんがいる」

「ちょっ、ブン太、失礼な」

同じく100メートル走を終えたブン太が、ちゃかしながら横を通った。1位と書かれたプレートをほれほれとあたしの目の前でゆらしながら、得意げに「天才的だろぃ?」と笑う。

「はいはい、すごいですねー」

「だろー?ゴール前でこけた誰かさんとは大違いだよなー」

「くっ!」

せっかくゴール目前数メートルにしてそこでコケるか!?という所で芸術的なスライディングをかましたあたしは、横を「ぷっ」と笑いながら追い越してゆく級友の鼻笑いを聞きながら、そのままスライドしながら2位でゴールした。華麗にテープを切ってやるつもりだったのが、結局キレたのはあたしの膝小僧とあたしの優勝に賭けてた悪友だった。

ちくしょー。


ぺちっと鼻先に何かを平たいものを投げつけて「ちゃんと消毒しとけよー」と、ブン太はそのまま飄々と自分のクラスの座席に戻ってゆく。鼻先にひっついたカラフルな色のバンドエイドをはがして、膝を見れば水で洗っただけの傷口はまだ少し赤かった。

「しゃーないな」

痛いのは嫌だなあ、と思って避けてた救護所に、軽くけんけんしながらあたしは向かっていった。


「すみませーん、誰か・・・」

そう言いながら救護所の白いテントをはらって中に入ると、こちらに足を向けて仰向けでベンチに寝ていた人物が、ひょいと顔を上げて「いらっしゃい」とにやりと笑った。


「なっ、仁王!?」

「おー、今日の裏MVPのー、見事なコケっぷりじゃったぞ?」

「うっ・・・見てたの?っていうかなんで仁王が?保健委員は?」

「玉入れ中」

「え?」


そう言われて仁王が指差した方向を見れば、まさに今グラウンドで行われている2年の玉入れに、見慣れた顔の保健委員くんがぴょんぴょんしながら、必死でボールをカゴに投げ入れていた。


「俺は代理じゃ」

「・・ふーん、サボりとかじゃなくて?」

「あいつはかわりに救護所にいてくれるヤツを探してた、ちょうど俺がその時日陰を求めて横を通った。利害の一致じゃ」


そう言ってそしらぬ顔で「足じゃろ?まあ、座っとりんさい」と仁王は立ち上がって、ガサゴソと救急箱から消毒液やら止血帯やらを取り出して来た。座ったベンチはひんやりとしていて、光を遮られた救護所には涼しい風がふき、そよそよと仁王とあたしの髪をなびかせる。「気持ちいいなー」とぼーとしたあたしの目の前に、ドカッと救急用品をおいて仁王が座った。

    
「足」

「へ?」

「足じゃ」

「何?」

「怪我したんじゃろ?出しんさい」

「ええ!?いいよ、自分でやるよ!」


慌てて拒否すると仁王の眼にキラッと剣呑な色と、意地悪そうな光が灯った。


「遠慮しなさんな、これは保健委員の義務じゃ」

「代理でしょ?」

「一般生徒が教師もしくは保健委員の許可無しで医薬品を持ち出すのは禁止されとるぞ?」

「いや、だからあんたも一般生・・」

「しみるぞー?」


あたしが言い終わらないうちに、仁王はあたしの膝に消毒液を染み込ませたコットンをあてた。忠告通りの痛みが押し寄せて来て「ひー」とあたしは息を殺してうずくまりそうになる。そのまま数回手際良く傷口をコットンで拭った仁王は、最後に一回優しくあたしの頭をポンとたたいて「お疲れさん」と言った。涙目になりかけながら顔を上げれば、ガーゼを切っている仁王と目があった。


「なんか上手いね、仁王、あっという間に痛みがひいた」

「マネージャーの見よう見まねじゃ」

「この間、赤也が部活中にケガした時?あたしもっと雑ぽかった気がするけどなー」

「そうじゃな」

「うっ・・」

「おっ、そうだ忘れとった」

「え?」

                  
何か大事なことを忘れたという風に、仁王が顔をこちらに近づけた。そのままその薄い唇が傷口近くまで落ち、ふうと冷たい吐息がかかる。

「ひえ!?」

「これもおまけで付いて来とったな、あの時は」

「仁、仁王!あれは赤也をからかってただの冗談で・・・っ!」

知っとるよ、という風に仁王は笑ってちらりと上目遣いで見上げながら、もう一度傷口にあの耐えられない感覚を生もうとした。


「仁王!」


反射的にあたしが叫んだのと、救護所の白い天幕が開かれたのは同時だった。急ごしらえの室内に明るい日射しが入り込む。

「・・・仁王、次の競技への呼び出しがかかっているぞ?」

涼しい声が室内にひびき、柳が長身をのぞかせて天幕を払いのけながら、入口に立っていた。その目が見開かれながら、静かに仁王を見つめている。めったに見られない開眼を、なぜここで披露するのかわからずに、けれどあたしはなんとかこの急場から逃げられると思ってホッとした。隣で仁王がかるーくチッと舌打ちするのが聞こえた。


「ガーゼは切っておいたからあてておきんさい、

「あっ、うん、ありがとう仁王」


仁王が横を通って、救護所から出るまで柳は動かずにその姿を目で追っていた。すっかり後ろ姿が遠ざかってから、柳はゆっくりと救護所に入って来た。


「怪我したのか?

「うん、さっき派手に転んじゃってね」

「ああ、見ていた」

「・・・(目撃してない人はいないのかな)」

「痛むのか?」

「ううん、さっき仁王に消毒してもらったから大丈夫、なんか貼っとけばそのうち治るよ!」

「そうか」


仁王、という単語にもう一回目が開かれたような気がしたが、気のせいかと思いそのまま会話を続けた。


「もし座席に戻るのなら肩を貸そう」

「いや、大丈夫だよ、そんなに深手じゃないし」


そう言って立ち上がろうとしたら、長く足を伸ばしていたせいか、傷口がピキッとひきつり、痛みにあたしは顔をしかめた。ぐらりと体がバランスを失い「しまった」とよろけた瞬間、目の前の長袖のジャージに包まれた腕が、難なくあたしの全身を受け止めた。急に包まれた暖かさにびっくりして、息が止まった。


「ごっ、ごめん、柳!」

「お前が立ち上がってよろける確率は高かったが、まさか的中するとはな」

「ごめんなさい・・・」

「離れなくていい、つかまっていろ」


そう言ってふっと笑い、柳はあたしに肩を貸して座席までゆっくりと歩いてくれた。あたしが座席に座るのを見届けてから踵を返してグラウンドの方へ向かう

「それではな、俺は競技に戻る」

「え?柳、次だったの?」

「ああ、今からだ」

スピーカーから「借り物競走に参加する3年生男子で、まだ集まっていない者は速やかにグラウンド横に集合して下さい」という、張りのある放送担当の柳生の声が聞こえた。グラウンド横の待機場所では、仁王が少し不満げに立ち、柳がそちらに向かうと、お互いに何か目線をかわして沈黙した。


「おい!!参謀VS詐欺師みよーーーぜ!」

「あの2人の対決なんざそうそう見られないもんな」


背後からブン太が飛びついてきて、その横をジャッカルが横切って、一番見えやすい位置を陣取って手招きしてくれた。周りにがやがやと他の女子や、男子も集まってくる。


「あの2人が借り物競走に出るって珍しいね」

「ああ、柳は人が決まらなかった末の立候補らしくて、仁王はサボってた間に勝手に決められてたらしいぜ」

「ああ・・・(なんか納得)」

「なあ、はどっちに賭ける?」

「え?」

「こればっかりは足の速さじゃねーもんな、俺は・・うーん、仁王かな?あいつ女子からノート借りる天才だからな」

「お前もだろ?ブン太。じゃ俺は柳だな、学校の人員、配置、隅々まで熟知してるからな」

、お前はどーする?あっ、ちなみに負けたヤツは勝ったヤツにポカリ奢りな」

「ええ!?・・・えーとあたしは」


ポカリ奢りもイタいけれど、それよりもあたしの脳内には先ほど、ふうと息をかけた仁王の悪戯な顔と、よろけた時にしっかりと支えてくれた柳の力強い腕の感触が同時にフラッシュバックした。え?何これ?なんかどちらかに賭けるのが、すっごい悪いことのような気がしてきた。えっと、えーと、うーんと


「うーん・・あたしは」

「そんなに悩むことか?」

「いや、そうじゃなくて」

「早く決めろよ、もうすぐあいつらの番だぜ」

「そうだな、別に無人島に行くんならどっちが良いっていう究極の選択聞いてるわけでもないしな」

「あっ、俺仁王とは絶対嫌だ、あいつ俺をエサにしてその間にとんずらしそう!」

「俺も柳とは嫌だな、「お前が生存出来る確率は・・・5%だ」とか真顔で言われちまいそうだ」

「「だよなーー」」

「あんたら・・・・」


あたし達がくだらない事を言いあってるうちに、仁王と柳の出番が回って来て、2人が他の選手に混じりスタート地点に立つのが見えた。さすが立海テニス部のレギュラー、緊張気味の他の選手とちがって、2人とも余裕で空砲が鳴るのを待っている。すっと教師が競技用ピストルを空にかかげた瞬間、周りにいるクラスメイトが息をのむのが聞こえた。

空高くパンッと銃声が鳴り響く。

最初に飛び出したのは他クラスの男子だった、その後を仁王、柳が追う。借り物競走は中間地点にある借り物が書かれた紙を手にしてからが勝負だ。それまでは体力温存とばかりに遅すぎない程度の速さで選手達が走る。

「頑張れー仁王!俺のポカリの為にー」

「柳、頼んだぞ!俺金ねーんだ!」

口々に勝手な事を言いながら、ブン太とジャッカルはテンション高く2人を応援している。周りのクラスメイト達も、各々が賭けた選手の名前を口にしている。やはり圧倒的に仁王と柳の名が多いようだ。

「そういやしってっか?」

「なんだよ?ブン太?」

「今年の借り物競走の内容決めたの俺らもよく知ってる人物らしいぜ?」

「え?誰だよ?」

「しんね、柳生が薄笑いを浮かべながらこの間そんな事言ってた」

「なんだよ?それ?」

各選手がコーナーをまがり、地面に置かれた紙に手を伸ばす。その途端、「ええー!?」とか「マジかよー!?」という、落胆や悲鳴がつぎつぎに上がった。

「なんだろ?何が書いてあるんだろ?」

「さあな?」

「よっぽど借りにくい物か?」

仁王と柳も各々の正面に置かれた紙を手に取った。同時にその紙を裏返す。次の瞬間、遠目からでも2人の体がビクっとなったのがわかった。
グラウンドに立ちこめる不穏な空気に、ざわざわと騒がしかった応援席は だんだんと静まりかえり、観客たちは口をつぐんだ。黙って紙に視線を落としていた仁王と柳が、お互いチラリと目線を会わせた。その瞬間、散った火花は多分錯覚じゃない。

次に起こった出来事に応援席の全員が目をむいた。くるりとこちら側をむいた2人は次の瞬間、見た事もないような全速力で応援席めがけて走って来た。その速さといったら衝撃的で、通りすぎた教員席のプリントを空にまき散らし、まい上がった砂煙で放送席に座っていた柳生の眼鏡がくもった。ブン太はガムを噛んだままあんぐりと口を開け「お前ら・・100メートル走出ろよ」と、ボソッとジャッカルが隣でつぶやくのが聞こえた。背後で誰かが「ボルトー!ボルトー!」と叫んでいる。何事かと思うような速さで応援席にたどりついた2人は息も切らせず、同時にこちらに手を伸ばした。次の言葉にあたしの心臓が止まる。


「「!!」」

「ひっ!は、はい!?」


突然自分の名前を呼ばれてあたしは飛び上がった。


「「来てくれ!!」」


水を打った様にシーンと静かになった応援席。全ての視線があたしの上に集まる。誰も何も言わない、ずしんと体にかかる重い空気。そこにぷ〜とガムを膨らませてブン太がもっともなツッコミを入れた。


「どっちとだよ?」



「・・・お前さんが来たいと思う方とくればええ」

仁王がちょっと見た事ない真剣な顔で言う。

「そうだ、お前が決めろ、

柳がうむを言わせない口調で問いかけてくる。

「ええーー!?」

           
何をどうしてこんな事になっているのかわからずに、先ほどの救護所での2人の感触やら、言動やらが再度頭の中をぐるぐるしてあたしを混乱させる。ちょっと、まって、決めろって、え?ていうかそれよりも何よりも大事な事を忘れてない?それ以前に聞くべきあの質問。


「紙にはなんて書いてあったの!?」


2人はまたチラリと視線をかわして、同時に言い放った。


「「それは言えん」」


「なんでーーーー!?」

焦ったあたしがグラウンド見れば、同じ組の山田くんが半泣きになりながら「3丁目の飯田さんのお姑さん・・えーとかっこ、意地悪な方、かっことじ、いらっしゃいませんかああああーー!?」と叫んでいる。(誰!?内容決めたの!?)

、お前さんはどっちと行きたい」

「お前が純粋に一緒に行きたいと思う方を選べば良い」

優しげに2人があたしに聞く。
仁王の低く甘い声、柳の涼しい凛とした声。

「そうだな、無人島に行くと思って選べよ」

「そうだ、そうだ」

先ほど自分たちが言った事をケロリと忘れて、ブン太とジャッカルがやんやとはやしたてる。(さっき2人とも嫌だって言ったくせにっ・・!)もう早くおまえ決めろ、という空気が応援席全体に広がっていた。右隣を見れば、ただでさえ怖い仁王ファンのお嬢さん方が長いネイルをキーーとあたしの顔にたてるふりをしていた、ビビって左隣をみれば柳に想いを寄せる文学少女の笑っていない目に「ころしますよ?」という文字が浮かんでいた。


、万事休す。


「「」」


目の前の仁王の白い手、そよぐ髪、懇願するような目。手当の優しい手つきと先ほどにやりと笑ったあの悪戯っぽい顔。その後の甘い“ふう”という耐えられないような吐息。

のばされた柳の細い指、俯いた黒い瞳、前髪がさらりと揺れる。つかまれた腕の熱さと優しいしぐさ。よろけたあたしを受け止めてもなお、ビクともしない力強い長身。

もう何がなんだかわからなくなって、あたしは考えを放棄した。


「あたしはっ・・・・・・・」


期待が込められた全ての視線があたしに突き刺さる。
一番先に心に浮かんだ名前を、あたしは言おうとした。



           

             


「・・あ「パンっ!!!!!!!!!!」


突然鳴り響いた空砲が緊迫した空気を一気に破壊する。「はい、ただいまC組の山田くんが1位でゴール致しましたー」柳生がよく聞こえる様に、スピーカーをわざわざこちら側に傾けて高々と宣言した。青筋が砂煙でくもった眼鏡の上に浮かんでいる。みれば山田くんがエプロンをしたまんまのお姑さん(意地悪な方)らしき人と、手をつないで完全に泣きながらゴールを決めていた。(どこまで行ったんだろう・・・)

その後に、続々と借り物競走では絶対に見られないような物、人を引きずって他の選手がゴールインする。「はい、今A組が5位でゴール致しましたー5着以下のゴールインには得点は与えられませんので、他の選手は速やかにさっさと待機場所までお戻り下さーい」キーーンとスピーカーを震わせて柳生が慇懃にしめくくる。呆然としたあたしの耳に「あーあ」という残念そうなクラスメイトの声が聞こえ、面白いことは終わったという風に、みなちりぢりと自分の座席に戻ってゆく。

仁王と柳は肩をすくませて、手にしていた紙をクシャリと握りつぶした。原形をとどめなくなった紙に書かれていた言葉はもうわからない。ホっとしたような、残念なような、よくわからない気持ちのままのあたしに、2人はさらっと衝撃的な事を言った。

、宿題じゃ、今夜中に考えておけ」

「ああ、明日ゆっくり聞かせてもらうことにしよう」

「ええええー!?」

そのままグラウンドに戻る2人を引き止めようとしたあたしの肩をポンと叩いて、ブン太が「モテモテのー、ポカリ奢りなー」と飄々と言って立ち去ってゆく。ジャッカルは「ご愁傷さま」と笑ってその後を追った。

「ちょっとまって!あたしの負け!?」

「んーん、どっちかつーと違うなー?」

「ああ、下馬評を全部ひっくりかえしたよ」

「リーチ、フィーバー、出っぱなして感じ?」

「ロイヤルストレートフラッシュか?」

「ジャーックポット!」

「人生ゲームならあと一つで上がりだな」


「・・・・・つまりはどういう事?」


ぴっとあたしを指差して、ブン太がにこっと笑った。
快晴の秋空に華麗な声がひびく。



「お前、大勝ち!!!!」








ー運動会の三日前ー



「精市?何を作っているんだ?」

「ああ、弦一郎か、借り物競走の内容をきめる係になってね」

「それはわかるのだが・・・ここに書いてあるのは何なのだ?」

「ん?何が?」

「いや・・この「好きな女の子」というのは・・」

「仁王と蓮二が出るらしくてね、ふふ、面白い事にならないかなー?と思ってね」

「・・・・」

「あっ、でもこの3丁目の飯田さんでも良いなー、これを拾った仁王と蓮二の顔がみたいよ」

「・・・・」

「そう言えば、弦一郎は借り物競走には出ないのかい?」

「・・・ああ、出ないことにした」

「そうか、それは残念だなー、はは」

「(今決めた)」










091025